どうして留学生や移民は女性が多いのか?

留学

『留学』の歴史を紐解いてみるととても興味深いものです。記録に残されている日本からの最初の『留学』は、588年に百済に派遣された善信尼ら5人の若い尼です。

尼僧たちは、百済で1年間、仏教を学ぶと、日本に帰国し百済で学んだ知識を日本に広めました。それは仏教だけでなく、当時の百済の文化・風習・文字、ひいては建築技術や陶芸技術まで多種多様なものでした。

ここで不思議に思えるのが、我が国初の留学生がどうして男性ではなかったのかということです。

彼女たちが百済に留学する前の朝廷は、仏教伝来とともに、広まった仏教への反動(仏教伝来後、疫病が流行したことがきっかけ)として、物部氏率いる廃仏派と蘇我氏率いる崇仏派が対立していた時代でもありました。

584年、高句麗から渡来した僧侶 恵便(えびん)に師事して出家し、善信尼と名乗ったばかりであった善信尼は、同年、蘇我馬子が邸宅内に百済から請来した弥勒仏の石像を安置した際、弟子となった恵善尼・禅蔵尼とともに斎会を行ったと伝えられています。

翌585年3月、物部守屋による廃仏運動が激化し、善信尼は大衆の面前で法衣を剥ぎ取られて全裸にされ、海石榴市(つばいち、奈良県桜井市)の駅舎で鞭打ちの刑に処されました。

打ちひしがれた善信尼は588年、仏教を学ぶため百済へ渡ることを決意します。それから1年後、善信尼が日本に帰国した後は、蘇我氏率いる崇仏派が朝廷の実権を握っていたこともあり、朝廷の厚遇を受け、大和国桜井寺(明日香村)に住み、善徳など11人を尼として出家させるなど、仏法興隆に貢献しました。

そう、善信尼が留学に出たのは、国内での迫害から逃れるためでもあったのです。

僕は語学学校をフィジー共和国で経営しています。それにヨーロッパをはじめ、アジア、アメリカ、オセアニアの学校を視察させていただく機会に恵まれました。そこでどの国でどこ学校でも共通して言えることが、留学生は女性の比率の方が、男性のものよりもずっと大きいということです。

僕のフィジーの語学学校では、男女比率が過去20年間、ほとんど変わっていません。男性28%、女性72%という比率です。これは僕の語学学校に入学するロシア人や韓国人の学生の男女比率についても同じことが言えます。

どうして女性の方が海外に向かうのでしょうか?

世界史を勉強しているときに、みなさん世界史の教科書の中に『メイフラワー号』というヨーロッパからアメリカに向かう船の挿絵があったのを覚えていらっしゃるでしょうか?僕がこの挿絵の原画を見たのは、ドイツのブレーメンの移民博物館でのことでした。

1492年、コロンブスによって発見されたアメリカ大陸にヨーロッパ人たちが向かうのは、アメリカ大陸発見から120年が経った1620年のことでした。メイフラワー号はイギリスから新大陸アメリカに向かいました。

当時のイギリスは清教徒(ピューリタン)革命の後、多くの清教徒が迫害されていました。清教徒の中でももっとも迫害されていた分離派が新天地アメリカを目指して乗船したのがメイフラワー号でした。

インターネットでも簡単にメイフラワー号の挿絵を探すことができると思います。挿絵を見て驚かされているのは、メイフラワー号に乗船しようと並ぶ乗客のほとんどが女性であったということです。

清教徒の中でももっとも迫害されていた分離派は、迫害のためたくさんの男性は兵となって戦い、残されたのは女性ばかりでした。ここでも新天地を目指した女性たちは、国を追われる形でイギリスを背にしました。

テレビのニュースに映るシリアからの難民たちを注意して見てください。きっと難民たちも同じ理由から女性が男性よりも多いはずです。

動物学的に考えると、男性は女性よりもひと周り身体も大きく、筋肉量も多く、新天地に向かい、その地を開墾するには男性の方が向いているのではと思います。ただ、それでも、いつの世も女性は迫害を受け、迫害を受けた者は迫害のない新天地を目指すものなのです。

そうして考えると、僕の語学学校にたくさんの女性が入学し、英語を学ぶのも、今の日本の社会が(日本だけではありませんが)まだまだ男性優位で、女性への迫害が残っているのかも知れません。

この世の中が本当の意味で男女平等になるためには、まだまだ留学生や移民が新天地を目指さなくてはならないのでしょうか?そのお手伝いをフィジーの語学学校でしていると思うと、少し目元がほころびます。


Free Bird Institute
CEO 谷口 浩
中国上海市の同済大学応用物理学部中退。ヨーロッパ・アジア諸国を放浪後、南太平洋のフィジー共和国で深刻化する少子化によって目立つようになった公立学校の空き教室・空き校舎を政府から安く借り受け、語学学校Free Bird Instituteを設立。独自の経営手腕でFBIを世界で2番目に大きな語学学校に育て17年に株式会社としてフィジー南太平洋証券取引所に上場させる。その実績がフィジー政府に買われ09年よりフィジー共和国の国立高校Ba Provincial Secondaryの理事長に就任。学校の再生に尽力する。著作に『FREE BIRD 自由と孤独』(中央公論新社)。『タニグチ式望遠鏡』の発明など光学研究でも高く評価されている。

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